DVORAK配列などのようにQwerty配列よりすぐれたキーボード配列が「発明」されても社会的に普及していないのは、すでにQwerty配列型キーボードを使用している人にとっては「キーボード配列を新たに覚え直さなければならない」という学習コストや、「既に持っているQwerty配列型キーボードを捨てて、新たにDVORAK配列型キーボードを購入し直さなければならない」という買い換えコストなどのスイッチングコストがかかるからである。すなわち「ある技術革新が社会的に普及しなかったのは、スイッチングコストが存在するからである。」という議論は、まったくの間違いというわけではないが議論としては不十分な議論である。
どのような意味でこの議論は不十分なのであろうか?
[論じ方の例]
この議論の不十分性は様々な形で論じることができる。例えば、下記のような視点で論じることもできる。
視点1(cost-benefit論的議論)
すべてのイノベーションはイノベーションである限り、何らかのスイッチングコストを持っている。スイッチングコストの存在にも関わらず旧世代製品にとっって代わって社会的に普及する製品と、スイッチングコストの存在のために旧世代製品にとっって代わって社会的に普及できない製品との違いはどこにあるであろうか?
視点2(consumer-producer論的議論)
製品の素材を鉄からアルミニウムに代える技術革新の社会的普及問題を論じる際には、消費者にとってのスイッチングコストと、生産者にとってのスイッチングコストの区別が必要である。
機械式タイプライターなどハードウェアキーボードの場合には、キーボード配列に関してもこうした違いは存在する。